御楼門とは

鹿児島城(鶴丸城)は、慶長6年(1601年)に 島津家第18代当主家久が建設に着手した島津氏の居城で、 本丸・二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。 これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、 島津氏は中世式の山城を領内各地に残し、 最終的には113区域をそれぞれ藩士に守らせる外城制度を敷いていました。
本丸の大手門が御楼門であり、城壁などとは独立した建物で有ったことから 御楼門と呼ばれています。 北へ向かって2階建ての御兵具所(多聞櫓)が続き、一方南には隅櫓がありました。 とりわけ御楼門は、いかにも武の国・薩摩を象徴するような威風堂々のたたずまいで、 城山を背景に建つ姿は、薩摩の国の特徴的な風景を創り出し、 城下町として発展してきた薩摩藩の一つのシンボルであったと考えられます。 御楼門は明治6年(1873年)の火災で居館とともに焼失し、 以後、再建された記録は残されていません。
平成24年(2012年)3月、公益社団法人鹿児島県建築士会がまとめた 「鹿児島(鶴丸)城跡『御楼門』復元調査研究報告書」によると、 明治初期に撮影されたとされる写真史料から御楼門建築の全体像が明らかになっています。 御楼門の形式は、二重二層の武家門で、門の規模は五間一戸、両脇戸(潜戸)付き、 上層(2階)の屋根は本瓦葺の入母屋、下層(1階)は四方葺き降ろし屋根で、 上層(2階)正面には連子窓(格子窓)を出し、上層(2階)の外壁仕上は上部漆喰塗、 下部は芋目地のなまこ壁であることが確認されています。 また、御楼門の規模についても、ほぼ完全な形で残されていた礎石遺構の実測結果から、 主柱、脇柱、寄掛柱の大きさや高さが判明しています。 特に、主柱の幅3尺は熊本城「南大手門」や佐賀城「鯱の門」のそれを遥かに凌駕し、 二条城東大手門にも迫る大きさであったとされています。
同建築士会では、上記調査結果、類似例と復元事例、文献資料(史料)、古写真などを 参考にしながら、建築学的に極めて自然で合理的な「『御楼門』復元図」を描くことができ、 それに基づく建築は可能であるとしています。

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